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加賀屋新田会所跡(加賀屋緑地) 動画撮影日 2016.4.30

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加賀屋新田会所跡(加賀屋緑地)

〒559-0015 大阪府大阪市住之江区南加賀屋4丁目8−7

 

江戸時代前半期から、幕府による経済政策の一環として新田開発が進められたが、これを受け大阪では、旧大和川流域と大阪湾沿岸の河口周辺の2カ所で新田開発が行われた。近世大阪の新田の多くは、大阪在住の町人による請負新田であったが、この加賀屋新田も、その代表的なもののひとつであった。

加賀屋新田を開発した加賀屋甚兵衛は大阪淡路町の両替商であり、享保13年(1728)よりこの地域一帯の新田開発をはじめた。延享2年(1745)から、加賀屋新田の開発に着手し、宝暦4年(1754)には加賀屋新田会所が完成し、ここに居を移した。翌年には開発事業も一段落し、代官より6町7反歩余の検地を受け、また「加賀屋新田」という村名を得た。その後も代々周辺地区の新田開発をすすめ、天保末年には105町3反歩余が開墾された。


 新田の経営、管理は開発主や開発主から任命された新田支配人が直接これにあたったが、新田会所はそのための中心的役割を担う施設であった。加賀屋新田会所は宝暦4年に完成したものであるが、当初の様子を示す史料は少ない。ただ文政10年(1827)の『家屋質入証文』により、この時期の会所の建築棟数や規模等を知ることができる。これによると、書院や鳳鳴亭を中心とした座敷部分は当時の姿をよく今に伝えることがわかる。両者を繋ぐ居宅部分も中心部は古い形態を残している。北側の土蔵は明治期に現在地に移築されたものと思われるが、全体として新田会所建物群の構成をよく伝えている。

 敷地内には玄関東側に中門の礎石が、また西側庭園の築山上には"明霞亭"と呼ばれた四阿の礎石や瓦敷き、古松を繰り込んだ階段なども残されており、会所にあった各種建物の配置状態もおおむね把握することができる。


 敷地の西半部には複雑な汀線の池がつくられ、護岸は玉石組とし、周囲に苑路を巡らせている。池の北には築山が高くそびえ、頂上は園内一の高所であり展望台となっている。ここからかつては新田の領域内が見渡せたという。西は汀より急勾配の築山が築かれ、斜面には庭木が多く植えられている。東の出島は低くつくられ、池面が見渡せるように工夫されている。


 敷地の北側と東側にはかつて幅3間の水路があった。現在は埋め立てられ道路とされているが、屋敷側に築かれた石垣はかつての新田会所としての屋敷景観を窺わせるものである。

 大阪湾沿岸はかつて広い範囲にわたり新田開発がなされ、会所も複数存在した。しかし戦前戦後を通じてほとんどが消滅し、現在ではこの加賀屋新田会所跡が唯一残された遺構となった。大阪の近世史を考えるうえで、また当地域の歴史性、地域性を考えるうえで極めて貴重な遺構である。

 

「加賀屋新田文書」田中 豊(『大阪の歴史』13 1984年3月)